ブログ

「小論文 書き方と考え方」について

 今日は、小論文について書きます。先月、「小論文 書き方と考え方」という本が、講談社選書メチエから出版されました。著者の大堀精一氏は、小論文の指導で、全国各地の高校で講演をなさっている方です。この本の序章に書かれてある一節を、本校生徒や教職員、保護者のみなさんに少しばかり紹介したいと思います。

 

     「書く」というのは思っていることに輪郭を与え、他者とコミュニケーションしながら社会に居場所を形づくるための言葉を見つける作業そのものなの

    だ。だから私たちは「書く」。      

     

     そこには、小論文を課すことを通じ、受験生がこれから生きることになる社会のリアルな姿を深く見つめられるかどうか、現実と向き合って感じたことを

    的確に言葉にできるかどうかを試そうとする、大学からのメッセージが込められている。      

   

     書くことをくぐらなければ、自分の思いの核にあたるものを抽き出して把握することはできない。        

 

     思っていることを言うためには、向き合う対象を多面的に見て深く考えることから始め、簡単には言えないという「感じ」を言葉で埋めていかなければな

    らない。それが「書く」ということの意味であり、始まりでもある。      

 

     思っていることを言えないという「感じ」を、私は「異和感」という言葉で表現している(通常は「違和感」と表すのであろうが、私の学生時代はむしろ

   「異和感」と書くほうが一般的だった。以来、ずっとこの字を使ってきたので、本書でも「異和感」と表現する)。

 

     自分を取り巻くできごとや情報、経験、それらから湧き上がってきた自身の思いが、他者に届くような言葉になりきれていないという異和感。「書く」と

    いうことはこの異和感から始まる。

 

     世界への異和感は決して世界の否定ではない。それは、世界を少しでも自由に生きていく行為の根源にあるエトヴァス(何か)なのだ。

 

  大堀さん、すみません。引用することの快感。そういうものを味わいながら、ここまでワープロを打ってしまいました。お詫びしながら、もうひとつだけ、紹介させてください。

 本書の19P『自分の言葉を持つ』に、「 ~ 福島県のある高校で教壇に立ち続けてきたT先生の言葉を紹介したい」とあります。この一節を読んで、お隣の福島県在住の、情熱あふれる指導により、自分にとってまだまだ強烈な印象を残しているT先生のことだと、ピーンときました。福島県の進路指導をリードする素晴らしい先生でした。T先生は、二〇一一年三月十一日、沿岸部にある勤務先の高校で生徒ともに被災しました。以下、大堀氏が紹介しているのは、T先生が東日本大震災から四年あまり後に首都圏の高校で講演されたときの言葉です。

    

    勉強するのは、「知らないこと」で大人から差別を受けないためです。これは一番辛い差別です。それと目の前にある厳しい現実を乗り越えるには、知らな

   いとダメなんです。

 

 「厳しい現実」。それだけでなく「理不尽でさえある現実」。それを乗り越えるために、何が必要か。少なくとも「書く」ことにより「自分の言葉を鍛える」ことで、何かが見えてくるはず。  

 今日は、少し理屈っぽい話になりました。昨日、防災避難訓練をやりながらT先生のことを思い出した次第です。  

 明日、大堀氏と再会できます。また刺激的な話が聞けそうです。楽しみです。校長室から、生徒が体育の授業でグランドを元気に走り回る姿が見えます。こっちもそろそろカラダを動かしたい気分・・・邪魔になるだけですね。校舎玄関前の大木、タブノキの下には、満開のレンゲツツジ。とてもきれいです。今日は、このへんで。