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髙橋一生氏の文章から

天気予報どおり、朝から一日中雨でした。そういう天気の中、美術科の受験生が朝早くから続々と集まり、受付終了時間よりだいぶ早くに全員が集合完了。すごいですね。みんな午前中の実技試験に一生懸命取り組んでいました。お疲れ様でした。

 さて、本屋さんを先週末にのぞいたら、村上春樹様の「騎士団長殺し」が早くも文庫化(新潮文庫)されて発売になっておりました。小生、単行本が出たときにすぐ買って読んだので、今回はパスにしたのですが、新潮社のPR誌「波」3月号に俳優の髙橋一生様が「『騎士団長殺し』に出会う」と題して、感想めいたものを寄稿しています。すごいですね。最近、テレビや映画で大活躍の髙橋一生様が村上春樹様の大ファンだとは・・・。う~んと唸ってしまいます。でも、実はとてもお似合いかもしれません。良き俳優に良き小説家が寄り添っている。いや実は、良き小説家に良き俳優が寄り添っている。そんな気がします。書き出しの1行目。

  読んでいる時、音が鳴っています。

 

こう、きました。「鳴っていました」ではなく、「鳴っています」と現在形。髙橋様は、相当な書き手のような気がします。そう確信しました。読ませます。次のセンテンスは、こうです。

 

 それが何の音なのか。昔聞いたことがある懐かしいものなのか、初めて耳にした新しい音なのか。

 読了後も、その音は止むことがなく、自分の日常に溶け込んでくるような、静かでいて、それでも芯の通った音。

 村上さんの小説からは、いつもそんな音が聞こえてくるようです。

 

 うまいですね。読ませます。思わず引き込まれてしまいます。この後、『象の消滅』や『レキシントンの幽霊』を愛読した話が出てきます。でも、髙橋様にとって、『騎士団長殺し』は、「そんな今までの自分の体験を、今まで通りのようでいて、まったく別なものにしてくれました」と語っています。

 

では、『騎士団長殺し』から、高橋様はどんな思いを抱いたのでしょうか?

こう書いています。

 

読み始めた最初のうちから〈私〉は僕でした。

この感覚は初めてのものでした。

 

〈私〉とは、『騎士団長殺し』中の〈私〉。つまり、「〈私〉は僕でした」とは、小説の語り手として出てくる主人公の〈僕〉が、そのまま髙橋様自身と重なったということです。

 

髙橋様は、さらにこう書きます。

 

〈私〉が物語のはじめの方で経験する、ある喪失がそのまま僕の喪失そのもののように感じたことも、その感覚を強くしたのかもしれません。

 

少しとんで、さらに髙橋様は、こう続けます。

 

僕は『騎士団長殺し』に出会う少し前に《失ってしまったもの、あるいはその時選んで失ったものが、かけがえのないものだったとわかった時には、取り返しがつかなくなっている》という、今まで経験した覚えのない喪失を経験していました。そんなあれこれも相まって、益々〈私〉は僕になっていきました。

 

久しぶりに、力のある村上ファンに出会いました。

 

髙橋様は、この寄稿文の最後をこんなふうに閉じています。

 

今この瞬間も、村上さんが紡いできた静かな力が僕の背中にそっと力を添えてくれています。

 

新潮社のPR誌「波」3月号は、大きな書店に行くと、カウンターに置いています。お金は普通とりません。

 

興味があったら、どうぞ。

 

今日は、このへんで。